

| 大塚真琴 オスカル竹村 |
1951年(昭和26年)4月28日滋賀県蒲生郡日野町生まれ。天智天皇の時代には、このあたり一帯、蒲生野に百済国(現韓国)から多くの人が渡来し住まわれ、その中に“鬼室集斯”という人物がいました。
集斯は今でいう文部大臣の位が授けられるほど優れた文化人でした。現在大字小野(コノ)の鬼室神社にそのお墓が祀られています。
鎌倉時代から平安時代にかけて日野を支配していたのが蒲生氏です。現在の日野の中心市街は、大永3年(1513)蒲生氏が中野城(日野城)を築き、蒲生定秀が天文年間(1532〜1554)初頭に町割をしたと伝えられています。
当時は、鞍や鉄砲の製造で知られていました。1543年種子島に2丁の火縄銃がポルトガル人によって渡った。その伝来銃の価格を2,000金とも言われていて、今日の2億円以上に相当する。それから10数年のち、滋賀 日野で初めて火縄銃「日野鉄炮」が造られた。
蒲生氏の政策により鉄炮製造が進められ、大阪の堺、長浜の国友に継ぐ、火縄銃の製造地となった。今でもそれに由来して鉄炮鍛冶が多かったことから上鍛冶町や下鍛冶町またはその鉄砲の玉を造っていたので玉屋町といった地名が生まれ、残っている。その後、大坂冬の陣、夏の陣には、大きな力を発揮した。
また、日野の特産品となっている日野菜は定秀の祖父にあたる蒲生貞秀の時に発見されたものです。蒲生氏が最も栄えたのが蒲生氏郷の時代です。氏郷は織田信長のもと、多くの戦いで活躍し、やがて信長の娘(冬姫)と結婚しました。
豊臣秀吉の時代には伊勢松ヶ島(現三重県松阪市)へ、そして伊達政宗の抑えとして会津黒川(現福島県会津若松市)へと転封、徳川家康や前田利家といった大名と肩を並べるほどの大々名となりましたが、40歳の若さでこの世を去りました。
一方、蒲生氏が日野を去った後、町は衰退していきましたが人々はやがて特産の日野椀や薬の行商をしながら全国へ進出していきました。
以後、町は日野商人の名で知られるようになり、今も昔ながらの町並みがその面影を残しています。
明治維新を迎え、廃藩置県で町域は大津県に属しました。
明治21年には日野町と桜谷村・西大路村・北比都佐村・南比都佐村・鎌掛村の1町5ヶ村が成立。同27年に桜谷村は東西に分立し、昭和30年まで続きました。そして、昭和30年3月この1町6ヶ村が合併し、現在の日野町が誕生したのです。 (以上 日野町観光協会のHPより抜粋)
故郷の町に帰る時、新幹線で東京駅から米原の駅で下車します。
そこからプラットホームの外にある「近江鉄道」に乗り換えて貴生川行きに乗車して下さい。近江日野駅まで約1時間(910円)です。週末は乗り換え自由のお得チケットが買えますので、途中の八日市で下車するのも一孝です。
彦根から、犬上川、豊郷、尼子、愛知川、五個荘、八日市、桜川などの町を通りながら遠くに鈴鹿峯が続いているのをみていると本当に気持ちが和んできます。
私にとって癒しは何といっても鈴鹿です。最後に綿向山が見えてくると感激は最高です。
私の祖先はずっと東近江で農業を行い、岳山を見ながら暮らしてきたのです。最近、祖母達の事をよく考えます。彼らの生き方がよく理解できます。日野菜作りは私にとって大きな先祖から受けついてきた生き甲斐です。今年の秋は片平の30坪の家庭菜園でチャレンジします。
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| 近江鉄道 | 日野駅 | 町の観光マップ | 上野田の父宅 | 日野菜 |
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| 綿向山(右)、竜王山(左) | 我が家の家庭菜園(今では宅地に) | 西大路の六地蔵 |
私の先祖のスナップをここでそっとご紹介しておきます。
![]() 大塚家祖父母(大塚家は元蔵王の北岡家から、祖母は永源寺町高木) |
![]() 竹村ナツエ(和歌山日高郡出身の祖母は私に大きな精神的支柱になった) |
![]() 竹村好之助(鋸目立て目立て鋸平は昔刀鍛冶だったっとか) |
![]() 両親大塚眞二、志津子(昭和24年) |
滋賀県立八日市高等学校を昭和47年に卒業。高校では最近売り出し中の経済小説幸田真音さんと同級生でした。
彼女の作品は殆ど目を通していますが「日本国債」『投資アドバイザー 有利子(ありこ)』の2冊が良かったですね。7月にTBSテレビのブロードキャスター(福留功男さん、三雲孝江さん司会のニュース情報番組。とにかく毎週高視聴率。山瀬マミちゃんの「お父さんのワイドショー講座」もおなじみ)に出ていましたね。頑張って下さい。
八日市高校の先輩には、「異邦人」で第23回芥川賞作家辻亮一(1914年生)がいます。昔,滋賀県の学生寮の湖国寮祭(東京都武蔵野市)で、昭和47年、当時吉祥寺にお住まいの辻亮一さんを講師でお迎えしました。当時私はこの寮の自治会の寮長でした。
氏は私が日野の出身だというと、実は自分の母は日野の内池で鈴休神社の近くの能楽堂に能を見に行った記憶があると言われ驚きました。滋賀県の誇る蒲生町出身の画家野口健三の母堂も内池出身です。
辻亮一氏は、早大在学中、八木義徳らと同人誌「黙示」を創刊。戦後、旧満州で送った苛酷で絶望的な抑留生活を、亡き妻への追慕の念でとらえた『異邦人』によって、1950年、第23回芥川賞を受賞する。以後、『異邦人』の続編にあたる『木枯国にて』をはじめ、『春いづこの里に』、『彼岸』、『修道者』、『黄泉』などがあるが、きわめて寡作な作家です。昭和47年に湖国寮祭で講演して貰ったときは最近では仏教にハマッテいるのだと仰ってました。なお、同じ五個荘町近藤出身の作家に外村繁がいます。豊郷、秦荘、五個荘、八日市、日野など湖東地方は朝鮮の(特に百済系の人々が1300年ほど前から住み着いており、不思議な文化的素養が息づています。八日市高校はこういう校風の奥に雰囲気が漂う気がしています。
フォークの神様岡林信康、映画監督としては
や出目昌伸、深尾道典などの3人の映画監督の先輩がいます。政治家では竹村正義 (元滋賀県知事、さきがけ代表大蔵大臣)がいます。
本当は江州音頭の事をここでは書きたいのだが、ここではこれ以上は言及しない。岡林信康ののCDその辺りの事はたっぷり書いてあるので参考にされたい。
県内の膳所高校、彦根東などの進学校と違い、リベラルで泥臭い素朴な愛すべき田舎の高校です。
昭和52年慶應義塾大学文学部図書館・情報学科卒業。北里大学白金図書館、東京医科大学図書館勤務後、1979年より青年海外協力隊のボランテイアとして南米パラグアイ共和国農牧省付属Dr.Moises
Santiago Bertoni図書館に司書隊員として2年間参加。
大学で図書館・情報学を学び、卒業後は新宿のある医学大学の平凡な司書でした。毎日、総武線で三鷹から新宿へ通っていました。ある日、満員電車の中で青年海外協力隊のボランテイア募集の吊り広告が目にとまりました。
これだと、思いました。平凡な私の日常を変えてくれる力がその中にあると思いました。パラグアイという国名も初めて聞く響きでした。大学は休職を認めてくれず、結局退職して参加しました。1979年の事でした。
駒ヶ根で3ヶ月スペイン語のの訓練を受け、中米のグアテマラで1ヶ月間スペイン語学校に通いました。これが凄く良かった。偉大なマヤ文明のにおいの残る、ウエウエテナンゴというメキシコとの国境に近い町に辿り着いたのは9月でした。近郊のトドス・サントス・クチュマタンやネバフという、本当に原住民文化の臭いのする地で勉強させてくれた日本政府に感謝します。
たまたま、ネバフという山麓の村へ行った日、日本人(神奈川大学の学生、佐渡出身)、カナダ人などが山中でゲリラに殺害されるという場に遭遇しました。その村はトドス・サントスク・チュマタン地方の正統的な伝統のマヤ文化を伝える民族学的にみても素晴らしい処でした。トレス・エルマーナスという3人の姉妹の経営しているペンションに泊まり、翌朝イタリア人の経営しているチーズ工場を見学に行こうとしていた矢先でした。
銃で頭を撃たれて血だらけになっている外国人3名がホテルへ運ばれてきました。山中のゲリラが旅行者を襲ったというのです。カナダ人だけが瀕死の重傷で痙攣しながら、軍隊の尋問に答えていたのが目に残っています。
あの時の衝撃は今も忘れません。何故、こんなにも素晴らしい伝統的文化のある国に、今も貧富の差があり、国民同士が銃で殺し合っているのか、、、、。現在のイラク攻撃への攻撃問題で揺れている国際世論の反論は当然の事です。暴力には武力というブッシュのやり方、考え方からは何も生まれてこない事をいい加減に学んで欲しいものです。

色々考えさせてくれたグアテマラの1ヶ月間の語学研修でした。
貧しいホームステイ先で毎日フリーホレスとトルテーリャの食事が続きましたが、あまり苦にはなりませんでした。それより、中米の抱える貧困の問題の方が大きなテーマでした。本当にグアテマラの田舎では食べていくのに精一杯という人々の暮らしぶりでした。
私たちが通った学校は、旅行者には結構有名な語学の学校で、アメリカやヨーロッパの時間と暇も持てあましたモラトリアムな若者が通っていました。私達もその一人だったのですが。
それから、今は無くなったブラニフというアメリカの飛行機会社を使い、パナマで1泊した後、ペルー、ボリヴァイを経由してパラグアイに辿り着きました。やけに遠い旅でした。こんな凄い語学研修コースを考えてくれた協力隊の企画担当者に感謝します。
グアテマラの語学研修は危険が多すぎるという理由で、翌年からは中止になりました。
ちょうどその頃、韓国の朴元大統領が暗殺されるという事件がおこりました。同じウエウエテナンゴの語学の学校に通っていたアメリカ人の若者はそのニュースを聞いて歓声をあげていましたが私には一寸ひやりとするニュースでした。
実は学生時代に私はJAKOFS(日韓学生友好団体)というクラブにも入っていて、代表の市川雅一氏など共に韓国へ関釜フェリーに乗り、数度渡ったことがあるのです。日本の中の朝鮮文化がテーマでした。
この訪問はすっかり韓国に対する私の考え方を変えてくれました。近すぎる国にいて、あまりりお互いの事が解らない事が多すぎたのだと思います。
私の故郷の近江日野に小野という寒村があります。そこには鬼室集斬(きしつしゅうき) の墓まであります。その村は1300年前に百済よりかた渡来人学者の一族が住み着いたのです。日本書紀に出てきます。
天智天皇時代に男女七百余人がこの蒲生野に移り住んだといわれています。最近テレビで話題になった隣の愛知郡豊里小学校、秦庄町、八日市市など、全て朝鮮の帰化人の子孫の血が流れています。西武の堤家は秦庄町出身で完全な百済の血がその顔から思想からツングースの血が流れていると思いませんか?
日野小学生の頃から、小野(このと発音する)には、むしろ裏山の水晶山(すいしょうやま)によく自転車で出かけていました。
この小さな神社は人魚が埋まっているという噂がありましたが、私たちには全く大きな関心を引く存在ではありませんでした。
日野東中学は、小野の裏側にあったのでよく、サッカー部のランニング練習で小野の村のあぜ道を走ったものです。
以前から思っていたのですが、小野妹子と同じ小野ですが(もっとも発音は違うが)何か繋がりがあると思うのですが、、、。
日野の町は佐久良川と日野川、出雲川の3つの川がありました。佐久良川は竜王山、日野川は綿向山を水源としています。
隣の蒲生町まで流れている佐久良川には佐久良、鳥平などの村があります。蒲生町の石塔寺もこの水系です。歌手の布施明、俳優の東野英二郎などの父親はこの地域の出身です。布施明は子供の頃、小野の村を通り、杉という村を通り、竜王山に登山したことがあるそうです。
前述の西武の堤康次郎、布施明、東野英二郎などの顔つきには百済の血が流れていると私は睨んでいるのですが。
最初に韓国に行ったのは大学3年生の時でした。日韓学生友好会(JACOFS)の主催で、慶應、早稲田、東洋大学の学生達と韓国の梨花女子、延世、高麗大学などの学生が釜山港で待っていてくれました。慶州、俗離山、扶余などの名所をバスで巡りながら、ソウルまで行きました。その時、金大中氏が東京の水道橋からKCIAにより拉致されるという事件が起こりました。まだ、韓国は戦後の混乱から立ち直っておらず、町は貧しく、レストランでも白米が出るのは珍しく、麺の日とか、粉食の日というのがありました。
扶余の白馬江の川沿いを歩いた時は本当にびっくりしました。
百済の古都扶余にある白馬江の辺を歩いていた時、ビビーという強いショックにに打たれた事がありました。
自分の血には完全に百済人の血が流れていると確信しました。大昔にこの地に住んでいたような気がしたのでした。
百済の血が自分の中にきっと流れていると確信しました。
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グアテマラでの語学研修の最中においてもこんな思いを強くしました。それからも南米のあちこちで暮らしながらいつもこの事を考えてきました。
上記の写真の左は、日野町の隣の蒲生町にある石塔寺のものです。この石塔は明らかに百済の古都扶余にあるものとそっくりです。2002年12月に扶余の遺跡の跡で同じモノを見てきました。
それから、何回も韓国へ出かけていきました。最後は2003年10月末です。その時の日記を抜き書きします。
雪岳山の麓の町「束草」(ソンチョン)には夜11時頃到着。ソウルから5時間ほどかかります。1949年の解放までは北朝鮮領だった。日本海(東海)に面するちょっと異様な雰囲気が漂う国境近くの町。20年ほど前は高速道路もなく、ここに来るのは相当な時間を要したらしい。夜の、バスの窓から日本海の白い波が寄せているのをみると、信じられない感じ。6時間ほど前は仁川の海を見ていたのだから。
翌朝、7番の市内バスで公園の入り口まで行きました。小学生が一杯の車中でした。韓国一の名山とよばれ、秋の紅葉シーズンになるとたくさんの人で賑わう雪岳山です。凄い数の人が全国から押し寄せていました。バスで渋滞が酷いので私は途中から歩いて行きました。気持ちよい風が河面をよぎっていきます。
一番高い大青峰は1708mという高さですから、驚きます。しかし観光で気軽に訪れるとその険しさに音を上げてしまいます。韓国で登ってみたい山に、雪岳山(ソラクサン、1708メートル)、漢拏山(ハルラサン、1950メートル)があります。北朝鮮の金剛山も是非、訪問したい山です。
束草を訪れたのも憧れの雪岳山に登ってみたい思いがあった為です。30分で雪岳洞。ここで入山料金(2200ウォン)を支払い、いよいよ雪岳山の登山開始です。公園内は綺麗に整備されていました。
権金城(コォングムソン)へのロープウェーもあっという間に頂上手前に。
時折、見える岩稜も青空にはえて美しい。国立公園の下からみると凄い険しくて、荘厳な美しさに映える山です。はげ山の多い韓国では唯一、険しいという感じが伝わってくる山やまです。つまり、一つの山ではなくて連峰という感じなのです。上高地の入り口とは又違った趣です。厳しい山だなというのが私の第一印象でした。
やはり少しは歩いて自然を満喫したいないう方は渓谷を歩くコースがあるのですが、今回は辞めました。
雪岳山国立公園の入り口をくぐってまっすぐ10分ほど進むと新興寺というお寺が見えてきます。周りは枯れた川面から大きな岩がごろごろ転がっています。ここからは道を左へ。しばらくは渓流沿いに道が続き、しばらく歩くと飛仙台(ピソンデ)、鬼面
岩、五連瀑布(オリョンポッポ)と続き、陽瀑山荘まで行くと食堂と売店がある小屋にたどりつきます。ここで一休み。山菜のビビンパプなどを頂くこともできます。さて、ここからはすこし道が細くなり、鉄ハシゴで道が作られているところも出てきて、登山っぽくなってきます。しばらくいくとあるのが天堂瀑布(チョンダンポッポ)。この滝をみたら引き返しましょう。この先は登山になってしまいます。宿泊ができるようなところまで5時間近くかかるというのです。
ロープウェーは凄い人気で、週末は2〜3時間も待たされることもあるとか。今回は小一時間でしたので、その間に新興寺などをみてきました。紅葉、銀杏が綺麗でした。川も大きな石がごろごろ、花崗岩の奇岩が寺の周囲を多い、ちょっと日本のお寺とは違います。大きな統一仏像が公園の真ん中に座っていて、この国もかっては仏教国だったのだなと思い知らされます。山水画の世界です。ホントに。
権金城(コォングムソン)へのロープウェーもあっという間に頂上手前に。この城は権と金という将軍が蒙古軍に抵抗して作った山城で、ここからのろしをあげたとか。
日本では、もう韓国の紅葉は終わっているという、ふざけた情報をJTBから聞いていたのですが、まだ8分というところでした。
期待した東北の紅葉ほどの深さはないものの、乾いた朝鮮半島の秋がよく感じられました。
昼過ぎに山をおり、公園入口のケンシントン・ホテル1階のレストラン・カャックで山菜ビビンバの昼食をとりました。これがすごく美味しかった。ガイドブックにある店は信用しないのですが、カヤックは絶対よし。キムチとご飯のお変わりをして、牡蠣のキムもつけてもらい約1000円でした。この地は山菜と豆腐、マッタケの産地として有名なのです。
帰りは、途中の大浦という港町でバスをおりました。ここは魚が食べられる店が集まっているというのです。
行ってみてびっくりです。釜山のチャガルチ市場(国際市場)も凄いが、こちらの方が鮮度と量が違います。河岸には鮭や松葉ガニが山積み。ホントです。
さっきのビビンバで満腹の筈なのに、一番綺麗な店に入り、オンドルの部屋に座りました。なんと、フグとホヤとイカを頼んでしまいました。
フグは1.3キロを丸一匹を刺身、唐揚げ、フグちり(韓国のミョウタンの味付け)で至極の境地に。フグは韓国でも高いのですが(1キロ5000円と最初は言われた)、すべて料理して貰って5000円位でした。半分以上は残した。もったいない。
イカ刺し、ホヤもニンニクのスライスと生唐辛子を葉っぱで巻いて食べます。これにゴマ油をつけていただくと最高でした。更け行く韓国の秋、日本海を見ながら、拉致された日本人のことを考えてふと不思議な思いいとらわれました。寒くもなく、天気のよい日が何日も続いていると地元のアスマは言っていました。今回は全く日本人に逢わず、ハングルに目眩をしながら、自分の祖先のルーツを探る旅でした。

その日は無理してソウルへ戻りました。夜10時頃、鐘路(チョンロ)区仁寺洞(インサドン)の旅館に泊まりました。1泊3000円位のオンドルパンの部屋でした。ここもよかった。テレビではNHKが見られるし、24時間の韓国ポルノ放送も見放題。暖かくてかけ布団もいらないオンドルパンの部屋でゆっくり休めました。
鐘路(チョンロ)区)の狭い路地を大きな荷物を器用に頭に載せ、忙しく走り回っているアジュマ(小母さん、アジュモニとも言う)の姿は日本でいえば阿部野橋の小母ちゃんという感じで、私が最も好きな韓国の光景の一つです。
日本は湿気の多い、どちらかというと温帯湿潤気候と深い山やまに囲まれた「トトロ」が棲む国なのです。一方、朝鮮半島というのは,半乾燥気候と強すぎる儒教文化が国の隅々に行き渡り、有能な国民を規制している国なのです。国民の強すぎる情念と情熱が、ある時は自己破壊にも繋がりかねない強さを持っています。
翌日から、国立博聞館、民族博物館、仁寺洞(インサドン)の骨董市を見て回り、民族酒場でマッカリを飲み、食堂で焼酎をチビリながら、これからの事を考えました。
日本以上にがたがたになった筈の韓国経済を見ていると、いやいやまだまだだと思いました。かれらのエネルギーは日本人以上だという気がしました。
国際協力の仕事を自分の生涯のテーマーとして生きていますが、これからは韓国のアジュモニやアジョシ(叔父さん)のように、のほほんとしているようで、しっかり底辺で上を見上げながら逞しく生きて行かないと、これからの社会では生き残れないと思うのですが。
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アスンシオンの農牧省付属のDr.Moises SantigaoBertoni 記念図書館が私の職場でした。パラグアイの2年間も素晴らしい日々でした。ここでは移民の人々と知り合いになり、大きな感化を受けました。帰国したらイグアス移住地に住もうと本気で考えたほどです。
当時、アスンシオンの町にあったサンデーパラグアイと後に創刊された日系ジャーナルの二紙に頼まれて数々の連載をおこないました。図書館にあった資料を翻訳して、歴史、文化、人類学、民俗学といった分野にペンを走らせたのです。オスカル竹村が私のペンネームでした。2年間図書館に眠っていた信じられないくらい豊かなベルトーニ博士の蔵書を整理しながら、せっせと二つの日系新聞に記事を投稿しました。一部はサンパウロのパウリスタ新聞にも掲載されました。
帰国後、協力隊の啓発課でクロスロードの編集部の仕事に従事しました。ここでは福岡庄太郎、レヴィユ・ストロ−スの記事などを紹介させて貰いました。そんな中で、再び2年後チャンスが訪れ、パナマへ行ける事になりました。大急ぎで結婚し、中米のパナマ市へ赴任しました。1983年の事です。
その後、ODA(政府開発援助)の仕事に興味を保ち、JICA(国際協力事業団)のプロジェクト方式技術協力のコーデイネーターの仕事に従事した。主に関係したしたプロジェクト名は、「日本パナマ職業訓練センタ−」(昭和58〜昭和63)、「ボリヴィア家畜繁殖改善計画」(昭和63〜平成6年)、「アルゼンティン植物ウイルス研究計画」(平成7〜平成12)、「ドミニカ山間傾斜地農業開発計画」(平成12〜14年)の4つのプロジェクトに関わりました。それから、ずっとラテンアメリカおたくです。
ODA(政府開発援助)の仕事に携わりながらラテンアメリカに自由渡航民及び逃亡移民、移民として渡った日本人の足跡を捜し、色々な雑誌に彼らの生きざまを発表した。主なものは以下のとおりです。
| タイトル | 掲載雑誌名 |
発表年 | 備 考 | |
| 1 | ラ・プラタの柔術王福岡庄太郎の生涯 | クロスロード (国際協力事業団) |
クロスロード (国際協力事業団) |
明治時代にコンデ・コマと共に南米で活躍した柔術家の伝記。クロスロード海を越えた日本人連載1 |
| 2 | はるかなるパナマ河よ私を招け ーモシセス・サンチアゴ・ベルトニー博士と南米大陸に活躍活躍した自然科学者達ー |
移住研究 (国際協力事業団) |
1983年3月第20号 | 20世紀初めにアルゼンティンパラグアイで農業学者として大きな業績を残したスイス人学者の伝記。 |
| 3 | パナマ日本人移住史 | 移住研究 (国際協力事業団) |
1985年3月 | ペルーから転出してきた日本移民をめぐる資料を外交資料館の資料を分析した考察。天野芳太朗の生涯にも言及。 |
| 4 | パナマ日本人移住史2 | 移住研究 (国際協力事業団) |
1987年3月 | ペルーから転出してきた日本移民をめぐる資料を外交資料館の資料を分析した考察 |
| 5 | 新垣用庸英とボリヴィア逃亡移民 | 移住研究 (国際協力事業団) |
1992年3月 | ペルーからアンデス越えて入植したゴム液採集の日本移民をめぐる分析した考察 |
| 6 | ラテンアメリカにおける日本人自由渡航民の顛末 | 三田評論 (慶応義塾大学) |
2000年3月 | 1596年アルゼンティンのコルドバ市で起きた日本人奴隷フランシスコハポンの訴訟をめぐる考察。コルドバ歴史古文書館へ直接取材。 |
| 7 | 海外職業訓練事情シリーズ パナマ編 |
海外職業訓練教会 |
昭和61年 |
海外職業訓練のパナマ編。歴史、文化の紹介も。 |
8 |
作品の舞台を行く(連載12) 悲しき熱帯(上、下) |
クロスロード (国際協力事業団) |
クロスロード (国際協力事業団) |
パンタナルとラブラド^−ル神父、構造主義を分析したエッセー |
「解説」
いずれも、移住研究(国際協力事業団)は全国の大きな図書館、国会図書館、都立図書館、国際協力事業団の地方事務所の図書館等で製本されて保存されております。
『移住研究』は、1967年に当時の海外移住事業団の業務資料として創刊され、1996年までに33号が刊行された研究誌です。10号以降は、組織の改廃に伴い、国際協力事業団によって刊行されました。廃刊後の1997年には、創刊30周年を機に、全7巻の合冊本として復刻され、関係機関に寄贈されました。
同誌には、海外日系社会に関する様々な問題が、移民事業関係者の実践報告や、研究者の論文といった形で取り上げられています
1,特にラテンアメリカにおける日本人自由渡航民の顛末は注目できる内容です。596年アルゼンティンのコルドバ市で起きた日本人奴隷フランシスコ・ハポンの訴訟をめぐる考察というサブテーマがあるように、日本人奴隷が16世紀に南米コルドバ市の奴隷市で売られていたという衝撃の事実です。
2,新垣用庸英とボリヴィア逃亡移民は約500枚の力作です。いわゆるアマゾンのアリコマ峠を越えて、ボリビアパンド及びベニ州に入ったチリンゲーリョの記録です。
3,パナマ日本人移住史1、2はペルーの天野芳太朗博物館を巡る戦前のパナマ日本人社会を巡る新しい事実をしらべあげました。
4,福岡庄太郎の生涯は明治時代にコンデ・コマと共に南米で活躍した柔術家の伝記です。ラプラタ河沿いの日本人の先駆差yの歴史にも追求してあります。九州唐津出身の当時で180センチ以上の偉丈夫だったという福岡庄太郎は、明治の末にコンデ・コマと二人で北米から南米までサーカスの芸人一座と一緒になって、他流試合をしながら流れていました。
5,はるかなるパナマ河よ私を招けーモシセス・サンチアゴ・ベルトニー博士と南米大陸に活躍活躍した自然科学者達ー
もしこのスイス人の学者にパラグアイの図書館で遭遇しなければ私の生き方は別のものになっていたでしょう。20世紀初めにアルゼンティンパラグアイで農業学者として大きな業績を残したスイス人の伝記です。ブラジルアマゾンのエミリオ・ゲールと並ぶ南米の偉大な農学者です。彼の孫の一人はパラグアイの農牧大臣にもなりました。

この20年間を我が家はラテンアメリカで過ごしてきました。パナマで長女と長男が生まれました。二人にはパナマのバスコニューネス・バウバオとアナイアンシといいう名前を付けました。1513年にパナマ地峡を発見したバルボアが当時パナマで一番綺麗だったといわれクークナ族の酋長の娘アナイアンシイと結婚したのですが、その歴史上の名前を二人に冠しました。
二人はその後日本の小学校には半年だけ通い、ボリヴィア、アルゼンティンと外国の学校で過ごしました。
長女と長男はパナマで生まれ現在、都内の高校1年生と3年生です。アルゼンティン共和国コルドバ市で5年間を過ごした後、日本に帰国した二人は文化カルチャーショックと闘いながら生活しています。本当に日本の学校生活は大変な様です。
昨年9月に単身のドミニカ勤務を終え帰ってみると、日本は大変な不況になっていました。私の経験してきたODA事業もシステムも予算も様変わりしとまどうばかりです。しかし、これからは草の根支援を含むODA,NPO
の事業を展開して行こうと決心しています。
現在、仲間と任意NPO団体の設立準備中です。
私のテーマは自然環境保全です。マナテイと人間が共存できるような自然環境が身近にあればどんなに素晴らしい事でしょうか?
来年から私自身も家族も新しい環境を克己しながら生きて行く予定です。このホームページはそんな鏑矢として放ったものです。
家族
家族とは何か?
20年も海外で暮らしていると自分は家族の中で生かされて生きているのだという事をつくづく感じさせらる。
我が家の子供達は長女アニー(麻美)と長男バスコ(俊一)の二人です。
二人はパナマで生まれ父親の仕事でボリヴィア、アルゼンティンと渡り住んだ。国際人となるべく育ててきました。ドミニカへは私は単身赴任、二人は初めてしっかりとした日本の教育を受けました。何しろ。川崎市麻生区の栗木台小学校には半年しか通って事しかなかったのですから、、、、、。
ドミニカでの仕事を終えて平成14年9月に帰国しました。翌年2月に大学受験に失敗すると、長女アニーは都立国際高校を卒業、さっさと英会話学校のアシスタント
の仕事を決めてきました。週3日、幼児英会話と簡単な通訳の仕事をやっているらし
い。自宅にはたまにしか帰ってきませんし、ゆっくり話もできません。1年間は大学
に行かず社会勉強をするというので、そうさせていましたが、今は落ち込み新しい路を探っています。アメリカとアルゼンティンにいくのが夢のようです。
長男はICU(国際基督教大学)の付属高校でアーチェリーと陸上部に所属して、倶
楽部活動に熱中しています。しかし最近とみに口をきいてくれなくなり、夜も自分の
部屋で籠もるような生活になってしまっています。難しいです。子供の教育
は、、、。 二人とも日本にいたくないといいます。お父さんも同じ意見で早めに家族で日本を脱出したく、その行方を探っているところです。

| グアテマラのキチュウエの市場にて アニー3歳、バスコ1歳 サンタクルスではナマケモノを飼っていた |

| サンタクルスの自宅 アニーの同級生 バスコの同級生(いずれもコルドバ市ラサール中等部) |

色んなことがあったこの19年間だった。家族はいつも一緒で互いをかばいあって生きていくのが自然だ。それが大きな財産だ。