
1.イスパノグアラニー文化との出会い

パラグアイのイエズス会村を往く
目 次
1.イスパノ・グアラニー文化との出会い
2.ある図書館員の生活と意見(サンチェス・ラブラドール神父)
3.パラグアイのイエズス会村の変遷
4.イエズス会村巡礼の旅(サン・イグナシオ)
5.遙かなるパラナ河よ私を招け(モイセス・S・ベルトーニ)
1.イスパノ・グララニー文化との出会い
”出会い”というのがあるじゃないですか。本当に南米のあの小さな図書館に、もし赴任していなかったら私の生き方はもっと別のものになっていたような気がします。あの時の興奮、しんどさ、絶望感、なげきなどと言ったものを今でも私は忘れません。あんなに緊張させてくれた2年間は、ありませんでした。
私は1979年(昭和54)〜1981年(昭和56)まで、青年海外協力隊のボランテイアとしてアスンシオンの農牧省のサンテイアゴ・ベルトーニ図書館に勤務をしました。任務はまがりなりもこの図書館を整備し、一般公開ができる体制にまで持っていって欲しいという目標をまず、最初の日に告げられた。新図書館には農牧大臣の祖父の名前を冠するというのです。
その時、私の仕事の上で知り合いになったイスパノ・グララニー文化との出会いが私のそれからの生き方を変えてしまったとさえ言えるでしょう。
さまざまなヒップな男達の生き方を通して、このホームページを進めます。まず、サンテイアゴ・ベルトーニとサンチェス・ラブラドール神父について紹介しましょう。
1979年(昭和54)11月のある暑い日の午後、図書館で仕事を進めていると、酷くやっかいな一冊の本に出会った。農牧省図書館にある私の机の上には、未整理の様々な資料が散らばっていた。
今年になって故ウインケル・アーノルド・ベルトーニ博士(サンテイアゴ・ベルトーニの息子)の蔵書の一部が私たちの図書館に寄贈されたのだった。
段ボール箱4つの中に無造作に積み込まれた資料は、思わず唾を飲み込む程の価値観が溢れていた。博士が使っていたというフイールドノート.1930年代にアルゼンティンで発行されていた
“El Hornero”(かまどり)、熱心な寄稿者であった彼はバックナンバーを自分で製本していた。その中に書き込みがたっぷりあり、興味深いコメントが溢れていた。
その当時のアスインシオンの知識人がや自然学者が出していた“El Cahcarrero”(農業者)という手書き新聞。さまざまな書簡、古新聞の切り抜き。そういうものはもう既に黄ばんでおり、表紙のところどこにシミが浮かんできていた。その他にパラグアイ科学協会会報のバックナンバーも10冊残されていた。
この雑誌は特に重要だ。1926年の第二号では、ブラジルのマットグロソ地方のインデオの生態調査、人類学的な調査を実施しているのだ。パラグアイにおける野鳥の完全な分類とリスト作り、グヤカリル、マカ、チュルピーといった原住民の言語学、生態研究までの広範囲にまで及んでいる。(彼らはグアラニー族ではない事に注目したい)
そういう資料の一つ一つをカードにとってながら原稿をチェックした。まず完全に仮製本を施して、保管をしょうというのが私の考えだった。図書館にはにはマキシミナ・シンボロンというフランス系の同じ歳の女性と私の二人きりだった。マキシミナはフランス系というだけあって目の大きな、ちょっと色白のお姉さんだった。ふたりきりだった。これから徐々に職員を増やしていくというのが直属の大臣官房の上司の意見だった。エアコンもなし、時代物の扇風機がからからと回っていた。
私たちは朝は8時から12時まで、午後は4時から6時までが勤務時間だったが、午後は暑くて農牧省には殆ど職員が出勤して来なかった。
目録カード作りは非常に細かな神経と熟練が必用である。大学を出て最初に勤めていた図書館では、勿論そんな仕事はさせて貰えなかった。頭をひねりながら、洋書マニュアルと首たけになりながらカード作りを始めた。
大学の図書館情報学の授業の中に“資料組織論”というのがあり、あまり熱心でなかった私は1年間実習をやらされたがかなりのところを忘れてしまっているのである。
とにかく手書きのカードで本を型端から整理していった。紙も文房具も満足なものがなかったが、この作業は何故か快かった。パラグアイでは何から何まで全てをこなす能力を要求されるので、込み入った内容を理解して目録カードを作っていくのは本当に芯から疲れてしまうのだ。
作業を終えて一服して出来上がったカードをみていると、一冊の本がどうにも気になった。そのサンチェス・ラブラドール神父の本は、まずその神父の経歴だった。
“ PECES Y AVES DEL PARAGUAY”(パラグアイの野鳥と魚類)となずけらたこの本は本当に魅力的だ。
どんな動機にせよ、身も知らぬ南米大陸の真ん中にやって来て、イエズス会村の建設に携わったのである。その間に、自然環境を見渡し自然科学者としての視点で本をまとめたのである。
前述のモイセス・サンチアーゴ・ベルトーニ博士がパラガウアイにやってきたのが1884年である、その100年前にこの地でどんな情熱でこの困難な仕事を始めていたのか?
実はこの同じ時期に日本人柔術家の福岡庄太郎もアスンシオンで暮らしていたのだった。
この本は単なる動物観察説明書ではない。ここに描かれているのは、まぎれもないパラグアイの大自然だるあ、イスパノ・グララニー文化圏で暮らすうちに身につけた、聖職者としての目ではなく、優れた民俗学者、植物・動物学者、文化人類学者の目を通して、広範囲に渡って分析を行っている。
神父は自分も意識しないうちに、イベリア半島人の眼からグアラニーの眼を備えらるようになっていた。盾の両面を見られない人間にとって、彼の仕事は私の目を開かせてくれる。
2,1607年にパラグアイにイエズス会は成立された

イエズス会は1549年(大永)3月26日にバルセロナ、ローマ、ベネチアでカトリックの若い情熱に燃えた青年神父達によって結成された。マゼランが世界一周に成功した年でもある。
その100年の後に中米、南米、アジアにその情熱の火が飛んできた。1607年にイエズス会は創立された。
(サンデーパラグアイ 1981年3月29日号)
パラグアイに赴任する前に中米のグアテマラで1ヶ月間のスペイン語の研修授業を受けた。メキシコとの国境に近いウエウエテナンゴという町だった。
ここで研修を終えた後でグアテマラシテイーの高橋弘先生(JICAオンコセルカ撲滅プロジェクト・チームリーダー)の自宅で、ポポルブフと神父たちの情熱の話しを聞いた事がある。
ウインピール(グアテンマラの民族衣装)が並んだ居間の中で、高橋先生はこう仰いました。
「原住民の先駆的な色使いや、ゼザインや構図といったユニーク性は先進国といわれる国には存在しないものが多いのです。そのインパクトの強さを知っているからこそ欧米人や日本人はこの国の民族衣装を争って買い求めるのです」
中米でも同じころ、神父達が活躍していたのだった。一体彼らをかっていたのはどんなパッションなのだろうか?私はますます頭が熱くなってきた。
「悲しき熱帯」でレビュ・ストロースが述べている一節と同じことだと思った。
ところで驚くべきことは世界遺産として登録されている中でパラグアイの遺跡はごく簡単にしか紹介されていあに。それでは、ユネスコの言う「グアラニー人のイエズス会伝道所』とはどのようなものなのだろうか?
Jesuit Missions of the Guaranis:
San Ignacio Mini, Santa Ana, Nuestra Senora de Loreto and Santa Maria
Mayor (Argentina),
Ruins of Sao Miguel das Missoes (Brazil)
ええっつ、どうなってるの?
それでは、世界遺産条約とは何なのでしょうか?
1972年の第17回ユネスコ総会で採択された「世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約」のことです。
世界遺産条約が生まれたのは、地球上に存在するさまざまな文化遺産、自然遺産を、ある特定の国や民族のものとしてだけでなく、世界の全ての人にとってかけがえのない宝物として、保護していこうという考え方からでした。
このため条約は、わたしたち人類が責任をもって保護すべき普遍的な価値を持つ文化遺産、自然遺産を認定し、そのリストを作成することを定めています。
これによって、遺産の保護活動に向けた世界中の人びとの国際協力が推進されることになります。2000年1月現在、158ヵ国が条約を締結。日本は1992年にこの条約を批准し締約国となっています。
| 世界遺産登録までのプロセス |

| [ 世界遺産はどうやって決まるのだろう? ] |
| 各国が推薦する候補の中からどの候補を世界遺産リストに登録するかは、年に1回開催される世界遺産委員会で決定されます。同委員会では、登録する文化財や自然環境がすぐれた普遍的価値をもつことを証明するために、明確で詳細な基準を設けています。 |
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| [ 世界遺産の登録基準<文化遺産> ] |
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グアラニー人のイエズス会伝道所とは以下の6カ所をさす事になっています。
: San Ignacio Mini, Santa Ana, Nuestra Senora de Loreto and Santa Maria
Mayor (Argentina), Ruins of Sao Miguel das Missoes (Brazil)

しかし、何か腑に落ちないものがあります。
24年前の私にはそれを看破できるような説明も知識もありませんでした。
こうなったら、3カ国の全てをそれかえ、ボリビア東部のチキタニア、ベニ州のものを見て全てをもう一度見直してみようと決意した。
しかし、計4カ国の全てを見て回るのは、とうとう10年以上の月日を要するとは想像することも出来ませんでした。
このHPを作ったのも、考えてみると24年間もかかった私の『イエズス会の青年伝道師団と原住民達の心の触れあいを探る青の彷徨』の軌跡をなぞる旅だったのではないかと思うことがあります。
4.パラグアイで生きる
この国で最初に暮らす事になってまず歴史と文化を簡単に整理しておこう。
レドクシオン
1567年にフェリペ2世の勅命によって縞棺されたスペイン法令輯の原住民ならびに植民地関係法令により,時のバラグアイ総督は植民地行政を行なっていたが,保護領地制硬の成立過程から原住民は保護領主や統治者側に反抗的になっていた.
1602年に原住民対策に長けていたエルナンド・アリアス・ デ ・サアベドラ〈単にエルナンダリアという)がバラグアイの総督に任命され,多ピオカ粉,塩漬乾肉,牛脂を輸出し,麻,靴,鉄その他必商品を輸入するために大いに努力し,原住民対策を実施したが,原住民対策が奏効していないことからフェリベ3世は,原住民教化のため1608年に勅命をもってバラグアイにへスス会のミッシヲンを派適した.

へスス会(イエズス会,1534年にイグナシオ デ ロヨラが創立した旧教の一派)は.バラナ川の北辺を中心にレドクシンと呼ばれる原住民教化部落を作った。
レドクシオンのほかに,へスス会独自の牧場をバラグアリ,タクワリとカアニヤベに,また農桝地をタクンプ・サン ロレンソlパルセキーリョ,カアビラプウに殺定した.レドクシオンには,教会を中心に学校もしくは司教の住宅,会議所,修理軋倉軋タンボ〈Tlmbo)と呼ばれる宿泊所が建投されていた.原住民は教会に逢する道路の両側に建築された7ないし8軒長屋こ住んでいた.
原住民を含むすべての住民は農民であるとして,総督府から派適されていた監察宮,酋長はじめ年少の原住民にいたるまでとうもろこし,タピオカ,棉,、マテ茶を栽培するために均等に土地が配分されていた.
農地は原住民の所有する土地と神と全住民の所有に係る土地に分れ,前者はアパンバ・エ〈Avambl e.グアラニー語),後者はツウバンパ.ェ 〈Tupamba,グアラエー語)と呼ばれていた.ツウバンバ・エから得た収益は公共地殻の捗朋,教会の繋軋こ係る費札未亡人,孤児,不具者への助成費に使われた。当初,原住民の勤労意欲は極めて低く生産が上がらなかったため,私有地から生産した物はすべて強制的にその者の名儀で倉庫に預り,必要とする食料を出庫する方法を採用し,彼らの生産活動を刺激する事になったのだった。
この結果マテ茶を輸出するなど農業生産は伸びた。スペイン人達はしめたとほくそえんだ。
1700年の初期にはサンタマリアデフエ,サンタローサ,サンイグナシオグアスー,サンチイアゴ,サンコスメ,イタプア,へススイトリニダーのレドクシオンに21,600人の人口を施するまでに成長した.牧畜も盛んになりへスス会独自の牧場の頭数を含め牛20万頚,馬35,000頚を保有し,経済的に極めて強大なレドクシオンに発展した。これは当時のスペイン人達のカリブから中米での経験からいうと、とんでもない数字だった。金は出なくても、もっと見返りになるものがアルゾ、そう彼らは直感した。
その直感は正しかった。
1705年にペルーの副王の許可を得て,ロレート 〈Loreto,現在のアルゼンチン,ミシオーネス州)というレドクシオンに印刷機を備えたのはビックりすることだった。
本当に素晴らしい事だ。当時の日本と比べてみても快挙ですよね。エウセビオニューレンベルグの「現世と神」という音物をホセフセラーノがグアラニー言割こ翻汎出版したことなど文化,宗教活動面においても侮り難い勢力となっていた。誠に若い神父達の行動は素早く、秀抜でした。
フランシスコ派(120時にフランシスコヂアシスによって創立された旧教の一派)の司教はへスス会とバラグアイ総督との鵬を図ったが失敗した。ここから、イエズス会の失脚が始まるので、二級丸にして下さい。
スペインとイギリス,フランスとの間に不穏な空気が流れていたこの時代において、スペインはポルトガルとの間に問題となっていたトルヂシーリヤ条約は、色んな意味で大きな課題が山積みしていたと言えます。
そこで、1750年に両国間に憶民地の移鍛約が漸く成立しました。
この内容はスペインがポルトガルに対してウルグアイ川の東南部にあるサンニコラス・サンけルなど7カ所のレドクシオンをポルトガルに移譲することであった.。
レドクシオンの解任民はこれに反対し2ヵ年間スペイン軍隊の助成を受けたポルトガル軍と闘ったたが,1752年2月10日に敗退しました。大変な争いでした。
。
このためへスス会のレドクシオン体制が後退したのでした。大きな、大きな転機でした。ホントに。
。しかし、1767年になって,カル・ロス3世はへスス会をうっとうしく思い始め、彼らの排除を考え出していた。バラグアイ,ブラジル・アルゼンチン・メキシコのイエズス会全て追い出してヤルと彼は本気で思った。
られた
パラグアイの歴史は、この時期以降大きな転機を迎えます。
独立と孤立主義
長い間のユーロッパ諸国の干渉でした。酷い連中です。ほほ3世紀にわたる植民地時代におけるスペインのための独占商業利潤・スペイン人の植民地における杜金的,政治的特権などを擁断る絶対王糾民地統治政策は,クリオージョ達に大きな反発心が成長する事になりました。
コムネロス運動が起こったのは当然ですよね。
イエズス会伝導村への攻撃は、今度は都市部のクリオージョ達の独立意識に火を付け、やがてはスペイン本国からの独立という当然の道へ繋がっていったのです。
面白ことに南米の全ての国で同じような経緯で独立運動が進んでいったのです。どうしてなの?
5.ある図書館人の生活と意見
サンチェス・ラブラドール神父の本の著作の中で現在のアスンシオンで見られるものは、もはや1967年にブエノスアレスで復刊された“PES
ESES Y AVESES DEL PARAGUAY” (パラグアイの魚類と野鳥)しかないのではないか、という歴然とした思いがしていた。
かれの著作の書誌を作り整理してみると、最も重要なものは次の三つだという気がしてくる。
1.Paraguay Natural 6巻 1767年刊
2.Paraguay Culturividad 刊行年不明
3.Paraguay Catotoliico(パラグアイのカソリック) 1770年
3のParaguay Catotoliico (パラグアイのカソリック)とはどういう意味だろうか?辞書を引いてみると@カトリック教の A普遍的な
B真正な、健全な の三つの意味がある。どうやら
現在のブラジルのパラナ州、リオ・グランデ・ド・スル州、アルゼンチンのコリエンテス州、パラグアイのコンセプシオン市の北部に、グアラニ−族を集めて最初のミッシオンを作る試みがなされたのは、1609年である。1629年までにこれらの地域に30程度のミッシオンが存在したと思われる。
サンイグナシオミニの名の最初のミッシオンは、グアイラ地区(ブラジル、パラナ州)に作られた。しかしこれらのミッシオンは、バンデイラと呼ばれるポルトガル人の奴隷狩の一団の絶好の餌食となる。ブラジルでは、パラ−やマラニョンのジャングルでインディオをほぼ狩り尽くし、また黒人に比べ値段が4分の1と安価であったことから、金鉱堀や砂糖プランテ−シオンで彼等の労力を必要としたのである。この地区で捕らえられたグアラニ−たちの数は30万を越えると言われている。
それぞれのミッシオンは安全な奥地に向かって、その場所を移すことになる。タペ地区(リオ・グランデ・ド・スル)はウルグアイ川周辺へ、イタチン地区(パラグアイ北部)のものは、パラグアイのミッシオン州かイタイプア州へ、グアイラ地区のものは、特に悲劇的な移動となり、1631年に1万2千人のインディオが伝導師に連れられて、パラナ川を筏やカヌ−で下りった。
グアイラの滝で多くの人命を失うという惨劇に遭いながら、このサンイグナシヲに辿り着き、1632年6月に再びサニグナシオミニのミッシオンを設立することとなった。
その後ウルグアイ北部で1641年、ミッシオンにて組織された。そのグアラニ−の軍隊にバンデイラが撃退され、彼らの攻撃は1時中断してしまったあ。無法者の武装していたバンデランテはホントに強かった。しかし、その後は小競り合いはあったが、100年近く平和は続いていた。その間、ミッシオン(イエズス会伝道師村)は原始共産主義とも言える穏やかな安泰のもと繁栄期を迎えた。これは素晴らしいシステムだった。
農業ではマンジョ−カ(キャサバイ)、タバコ、サトウキビ、綿、マテ茶、などを栽培し、牛、馬の牧畜も行われた。また様々な楽器が作られたほか、南米はでは初めて本が印刷され、タイプライタ−が製造された。信じられます。たいしたものですよね。
またロ−マ教皇の庇護のもと、植民地行政管も許可なくミッシオンに立ち入ることができず、まさに小独立国の様相を呈していた。
このようなことは、牧場主、植民地政府、スペイン、ポルトガルの利益に反するものであった。スペイン領土ではポルトガル側と違い、名目では奴隷は禁止されていたが、実際には奴隷(エスクラ−ボ)ではなくエンコメンデ−ロという名前で、インディオの奴隷を使用していたし、この収奪だけのために存在する大陸で、インディオと共に文明を築くなどというのはもっての外だった。
ウルグアイ川の東をポルトガル領と定めた1750年のマドリッド条約が契機となった。すでにイエズス会は東洋で敗北し、ヨ−ロッパでもその存続が危ぶまれているときであった。イエズス会はその存続のため、教科したグアラニ−とともにこの地の宣教師を裏ぎり、ポルトガル領内のミッシオンの放棄を決定する。
そして1753年、グアラニ−対スペイン、ポルトガルの混成軍によるグアラニ−戦争が勃発し、1777年には、あらゆるミッシオンからのイエズス会師の追放が決まるのである。
映画にあるようにポルトガル領内のミッシオンはその富を奪われ廃墟と化しグアラニ−は虐殺される。このサンイグナシオも映画に顔を出すが、主な舞台となったのはここから約250キロ北上したイグアスの滝の上部のミッシオンであり、現在ではその付近はパラグアイの日本人の移住地となっている。
レドクションは破壊されますが、スペイン領側のミッシオンはその後も存続した。このサンイグナシオ・ミニの破壊は、アルゼンチンの独立の混乱期に、ポルトガル軍が進入したことによるのです。グアラニ−たちにアルゼンチンの独立という意識のあるなしにかかわらず、彼らはミッシオンの防衛のために戦い、多くが虐殺された。アルゼンチンのミッシオン州の観光局発行のツ−リスト用のパンフレットの最後にはこうある。
「遺跡の壁には、その時の炎や戦いの後が刻み込まれている。この忘れ去られたグアラニ−の勇気ある犠牲に、我々は未だ恩義を負っている。彼らのおかげでわが州は祖国につなぎとめられたのだから」
イエズス会伝導村への虐殺とか村への攻撃は、今度は都市部のクリオージョ達の独立意識に火を付け、目覚めさし、やがてはスペイン本国からの独立という当然の道へ繋がっていったのです。なるほど。
面白ことに南米の全ての国で同じような経緯で独立運動が進んでいったのです。どうしてなのでしょうか?
図書館の司書として、こんな空想を広げられる事は幸せですよね。ほんとに。
アスインシオンの図書館に戻り、冷たいテレレを飲みながら、私の話を同僚のマキシミナとアレックスは真面目に聴いてくれた。すっかり私は満足して、次は現在のパラグアイ人達の意識も調査しょうと、考えだしていた。
目 次
1.イスパノ・グアラニー文化との出会い
2.ある図書館員の生活と意見(サンチェス・ラブラドール神父)
3.パラグアイのイエズス会村の変遷
4.イエズス会村巡礼の旅(サン・イグナシオ)
5.遙かなるパラナ河よ私を招け(モイセス・S・ベルトーニ)